欧州 ベルサイユ宮殿(Palais de Versailles)2 2018/06/27
「年間パスポートを持った詐欺グループがいるから油断しないでね!」、添乗員さんが注意を呼びかけます。最近はテロがあったり、世界でも有数な犯罪の街になってきたと言われるパリとその周辺、美術間の中は大変な人混みで数珠つなぎ状態、ついつい周りの美しさに無心状態になって警戒心吹っ飛び状態、見どころ多すぎで時間がなくて詰め込み状態。そして何よりも時間の関係で庭園に下りることができずただただ残念・・・ でもベルサイユ宮殿を無事に見終えることができたので「これで良し」と言ったところです。
ヴィーナスの間の天井画
ディアーヌの間(ベルニーニのルイ14世の胸像)
ディアーヌの間の天井画
メルクリウスの間
アポロンの間
アポロンの間の天井画
戦争の間
庭園
鏡の間
王の寝室
閣議の間
円窓の間
鎌倉 浄光明寺 2018/11/22
山号:泉谷山
宗派:真言宗泉涌寺派
本尊:阿弥陀三尊
創建年:建長3年(1251年)
開山:真阿
開基:北条時頼・北条長時
鎌倉七口のうち亀ヶ谷坂と化粧坂に近い和泉ヶ谷の谷戸にある真言宗泉涌寺派の寺院「浄光明寺」、もとは源頼朝の発願で文覚上人が不動堂(草庵)を建てたことがはじまりで、その後、建長3年(1251年)頃、第5代執権・北条時頼、第6代執権・北条長時が開基、真阿(真聖国師)を開山に招き創建されます。
山門
客殿
楊貴妃観音石像
創建当初から足利氏の帰依を受け、浄土・真言・華厳・律・天台・禅等諸宗の兼学道場として仏教教学研究の中心的役割をなします。元寇3年(1333年)には後醍醐天皇の子、成良親王の祈願所となります。最盛時には10近くの子院を持ちますが、江戸時代には伽藍が荒廃し本堂さえも失われる状態だったと伝わります。
第九佛勢至菩薩
鐘楼
不動堂
阿弥陀堂へ
裏山には、由比ヶ浜で漁師の網のかかり引き上げられたとの言い伝えををもつ「網引地蔵」、阿仏尼の子で冷泉家の祖である歌人・「冷泉為相の墓」、収蔵庫に安置されている足利直義の念持仏「矢拾地蔵」、除夜の鐘の最中のみ公開されるという不動堂に安置されている伝説の「八坂不動明王像」、泉涌寺にある楊貴妃観音の模刻などなど見どころがいっぱい。
やぐら
5年前の夏の終わりに訪れたときはちょうど夏祭りの準備が行われていて、境内は大賑わいでした。閉ざされた阿弥陀堂へ行き着くのが精いっぱい、仕事の邪魔にならないように足早に退散しました。でも今回は裏山まで上ることができ、お寺の方から見どころもしっかり説明していただきました。ブラタモリでも紹介していたらしいのですがこれは見逃しました。残念!! それにしても阿弥陀堂のところのやぐらは迫力があって凄い。
網引地蔵のやぐら
冷泉為相のお墓
鎌倉 長寿寺 2018/11/24
正式名称:宝亀山長寿禅寺
山号:宝亀山
宗派:臨済宗建長寺派
本尊:観音菩薩
創建年:(伝)南北朝時代初期
開山:古先印元
開基:(伝)足利尊氏・足利基氏
臨済宗建長寺派の「長寿寺」、大本山「建長寺」の塔頭寺院、足利尊氏ゆかりの寺院として有名です。創建の経緯については詳しいことが分かっていないようですが南北朝時代に入った北朝建武3年(1336年)に足利尊氏が古先印元を開山として創建、その後、尊氏の次子・関東管領の足利基氏が父の菩提を弔うために七堂伽藍を整え、尊氏の法名「長寿寺殿」から「長寿寺」と名付けたと伝わります。建長寺に残る古文書と長寿寺が保有する古文書では記録に矛盾するところもあるので(伝)又は「詳細不明」となっているようです。境内奥の矢倉には尊氏の遺髪を納めたと言われる変形五輪塔があり、京都の等持院と並ぶ尊氏の墓所となっています。
山門へ
本堂
かつては完全非公開の寺院でしたが本堂を新築してからは特定の限られた時期の晴天の日のみ拝観ができるようになりました。鎌倉街道と扇ガ谷と北鎌倉を結ぶ切通し・亀ケ谷坂の登り口にある長寿寺、いつもならまっすぐ伸びた石段の上にある山門は拝観謝絶の柵で遮られ、ここからの一望のみですが、真っすぐ延びる美しい石畳の向こうに佇む本堂、北鎌倉に来るときは中に入ることができなくてもこの光景を見るためにこれまで石段を上ること数回といったところでした。
尊氏の五輪塔
さて、今回は初めて拝観が叶うこととなり山門から石段下まで繋がる多くの拝観者の列に並んで開門を待ちます。境内には何度も見てきた本堂、初めて上がることができました。そして本堂が新築されるまでは仏殿として本堂の役割をはたしてきた茅葺屋根の立派な観音堂、遠く奈良の古刹忍性山円成寺にあった多宝塔の第一層を大正時代に改造・移築して設置されたものです。本堂から繋がる小方丈や書院、ここから眺める白砂に石が配置された石庭、観音堂前のウグイスゴケが敷き詰められたグリーンの世界… 神奈川県を出て5年、なかば諦めかけていた長寿寺、やはり期待どおりの素晴らしさを満喫できました。
境内の庭園
書院内
鎌倉 極楽寺 2018/11/25
正式寺名:霊鷲山感応院極楽律寺
宗派:真言律宗
本尊:釈迦如来
創建年;正元元年(1259年)
開山:忍性
開基:北条重時
江ノ島電鉄「極楽寺駅」から徒歩で数分、極楽寺坂切通の近くにある鎌倉で唯一の真言律宗の寺院「極楽寺」、正元元年(1259年)に二代執権・北条義時の三男・重時が忍性上人を開山に迎えて創建します。元は深沢にあった阿弥陀如来像を本尊とする寺院を当時「地獄谷」と言われていたこの地に移したものと伝わります。
後に後醍醐天皇から菩薩の称号をいただいている忍性上人、大きな境内に施薬院、悲田院、両病院などの施設を設置、病人や貧しい人々を救済し生き仏と仰がれるようになります。最盛期には境内に金堂、講堂、十三重塔など七堂伽藍が配置され49の子院を持つ鎌倉有数の大寺でしたが、度重なる戦災や天災によって壊滅と復興が繰り返され規模は徐々に縮小、その伽藍も関東大震災で倒壊、免れたのは唯一葺の山門のみで他に現存する本堂、客殿、宝物殿はその後に再建されたものです。
元弘3年(1333年)、鎌倉幕府滅亡時の合戦で新田義貞の鎌倉討ち入を阻んだことで知られる極楽寺坂切通し、極楽寺を開山した初代住職・忍性上人が切り開いたと伝わります。今では広くなだらかな車道となっているので他に残される切通しのような面影はありません。死体が遺棄され、行き場を失った人々が辿りつく地獄谷に建つ極楽寺、この地の定めか荒廃と復興の繰り返しで決して境内の伽藍が見てきたものは安泰な歴史ではありませんでした。江ノ電の極楽寺駅からの上り坂、または成就院から下り坂、次から次へと拝観客がやってきて山門脇のくぐり戸の往来は結構賑やかです。残念なことに境内はすべて撮影禁止となっていますので後回しになっていましたが、この先いつ来られるかわからないので今回の鎌倉旅行、最後の参拝寺院を極楽寺といたしました。